昭和四十九年七月五日 朝の御理解


御理解 第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」


 まさに、言うなら、この通りです。
 本当にいろいろ教えて頂いとったおかげで、今日の私があります。
 と言うて、これは何の稽古でも同じです。やっぱり、それを忘れてしまったというようなことでは、師匠も教え甲斐がない。自分も、又、損だと。
 いわゆる、神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜ぶという。そういう三者一体の喜びというか、そういうおかげとは、どういうおかげを頂いた時だろうかと思います。
 まあ、いろいろと教会にもよりますし、信者さんにもよります。
 一つの流儀といったものがあります。
 いろいろある。あそこは、病気を専門に治すという教会もあります。
 あそこはもう、例えば、大阪の玉水さんあたりはほとんどが商売人、それで商売人がどんどん助かる。
 という具合に、そこそこの流儀というものがあるんですけれども、ただ、お金を信じさせて貰う。億万長者になったというかお金持ちになったというだけでは、私は、神様も喜んで下さる、金光大神も喜んで下さることにはならないと思う。ね。
 おかげで、最近、私が申しております。おかげで健康のおかげも頂いとります。おかげで、お金も不自由せんようになりました。おかげで、内輪もめするような、言わば争いのあるようなこともない、いわゆる家庭円満のおかげを頂いとりますと。
 言うならば、貧乏の無い世界、争いの無い世界、病気の無い世界、そういう世界を顕現した、現した、そういうおかげを頂けるようになる程しの信心が頂けた時に、私は、神も喜び、氏子も、金光大神も喜ばれることになると思う。
 「本当に、あの人が一生懸命信心しとるおかげで、お金に不自由せんごとなったが、いつも病気しとる」ということでは、私は、本当の神様の喜びは頂けないと思う。
 健康のおかげも頂いた。おかげで、お金に不自由せんようなおかげを頂いたけれども、いつも内輪がもめておるというおかげを頂いておっては、神様のおかげでこの様なおかげを受けましたとは言えない。
 私は、昨日、神愛会で先生方にお話しをしたことですけれども、足ろうたおかげを頂かねばいけないと。
 まあ、私の信心の一つの理想というようなこと。「梅の香りを桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」。これが私の信心理想だと。
 そげなことが出来るはずがない。
 ところが出来るんだと。
 「春は三月、花の頃、私は十八、あなたは二十。使うて減らぬ金百両。死んでも命があるように」。
 「馬鹿げたような、そんな」というけれども、そういう理想郷に住まわせて頂ける程の道を教えて下さるのが金光大神です。
 その一つだけではいけんのです。どうでも揃わねばいけんのです。
 だから、その足ろうおかげを頂かせて頂くことがです。やはり、一つのあの手、この手というものを、やはり体得していかねばいけない。
 先日から、いわゆる蚊取線香が燃えて[   ]という御理解、言うなら一生左巻きで、一生馬鹿と阿呆で、一つ本気でそのことに取り組ませて頂き、おかげを頂くということ。
 これにはね、一切の煩わしいものもなくなり、言うならば、馬鹿になっとるというて馬鹿にされることはない。かえって、大事にされたり尊ばれたりするというおかげを頂かなければいけない。
 だから、もう、これ一つで良いのだという、その「これ一つ」という、なら本当に、この馬鹿と阿呆にならせて頂くために、あの手この手が要るわけなんです。ね。
 例えば、剣道とか柔道とかの稽古をする。そこに例えば、どういう場合に当たっても、自分に力量という、力の自信が出来て参りますから安心である。
 又は、お茶とかお花というものの稽古をさして頂くと、心豊かに、言うならば、情操というものが培われて来る。そういう培われた心、又は強いとか力があるとか、力だけではいけん。
 これは、相撲なら相撲でもそうですけれども、先ず大きくなることだ。そうして、力をつけていくということだ。そして技を覚えていくことだという様に、やはり内容として、それが日々の信心の稽古なんです。
 ですから、金光大神の御教えのすべてがです、馬鹿と阿呆なら馬鹿と阿呆、和賀心なら和賀心一つに、を頂くことのための御教えだと。たくさんの御教えというものがです、やはり、あの手この手で説いてあるわけです。
 それを、様々な角度から解き明かして下さっておるわけです。
 そこで、なら、私どもが一切を馬鹿と阿呆で受けていこう、大きな心で受けていこうということなんですけれども、実際問題としてです、なかなかそう簡単にいかんのが、いわゆる馬鹿と阿呆です。
 それを、今まで頂いて来た御教えで言うと、いわゆる「成り行きを大切にする」ということである。言うならば、自然の働きとの対決において、私どもが勝っていかねばならないということなんです。
 「馬鹿と阿呆で」ということはね。自然の中に様々な問題が起きて来る。それも、これは大坪総一郎の前に現れて来る問題、皆さんの一人々々の上に違った問題が様々に現れて来る。言うなら、そういう自然の働きとの対決の場でです、合掌して受けれるか、力が足らずに弱々して受け切れないか。ね。
 勝つということはどういうことかというと、その自然の働きとの対決の場で勝ちを得るということはどういうことかというと、それを合掌して受けたということなんです。それを例えば、受け切れなかった時には負けたことになる。
 だから、これを勝って勝って勝ち抜いていくということが馬鹿と阿呆になるということである。
 やはり、馬鹿と阿呆になってさえおけば良かというものはではない。
 ただ、血の涙が流れるほど残念だけど、黙って辛抱しとるというのは、だから、本当の馬鹿と阿呆じゃないわけです。
 なら、そういう血の涙が出る問題をです、私どもがあの手この手の御教えを頂いとる時に、こういうことはこの手でいけばという、いうならば、力と技を覚えておけておく時に、それを平気でかわしていったり、それを受け止めていったり、その後の有り難さというものがです。いわゆる蚊取線香に火がついておる様な、煩わしいものが落ちて来るという様なおかげになって来るのです。
 火がついとらなかったら、いくら左巻きになっても、煩わしいものは落ちて来ん。燃えもせん。ね。
 神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃと、三者一体が喜びあえれる程しの教えを、合楽で皆さんは頂いとられるわけです。
 そこで、足ろうた信心に足ろうたおかげというか、言うならば、貧しさの無い世界、争いの無い世界、病気の無い世界という様な、おかげの世界を現していく、そこに住まわせて頂くおかげを頂く時に、はじめて神も喜び、金光大神も喜んで下さるということになるのです。
 もちろん、自分も「有り難い。勿体ない。」で過ごしていけれる。
 「もう、家は何も言うこと無かばってんが、金さえあれば」とか、「家は他に言うこと無いけれども、健康さえあれば」と言うのでは、私は、三者一体の喜びにはなって来ないと思うのです。
 ここはどうでも、だから、習うことを忘れておかげを落としては、師匠も喜ばん。又は、神様も喜んで下さらない訳ですけれども、そういう結論におっしゃっておられる三者一体の喜びという様なものが頂けれる信心とは金光大神の御教えを紐解かせて貰うところから、そういうおかげの頂けれる道。
 だから、そういう大変なおかげを頂くのですから、ただ、馬鹿と阿呆になってさえおけばという様なことでは受けられない。馬鹿と阿呆に本当になれるための、修行であり、教えを頂くという内容が要るのです。
 だから、自分の情操を高めるためには、美的感覚を身につけていく。お花の稽古をしたり、お茶の稽古をして、美的感覚を養う様に。なら、柔道とか剣道とかを本気で稽古をして頂いて、何処に行っても安心という様な。ね。
 それだけではいけん。強いだけではいけん。ただ、情操だけが豊かであるというだけではいけん。
 昔、太田道灌という人が、狩りの帰りに時雨に遭った。そこで一軒のあばら家ではあったけれども、そこに門構えの家があったから、そこに立ち寄って、笠の簔を借りようと所望した。ところが一人の娘さんが出て来て、裏に引っ込んだと思うたら、お盆に山吹の花を一枝載せて道灌の前に現れた。
 「『簔を貸しくれ』と言うのに、山吹の花どん持って来る」からと言うて、言わば腹を立てて帰った。そして帰って、狩りの話などする中に、「今日はこうこうだった」と言うて話した時に、一人の家来が進み出て言った。「それは、本当に、御主人様ともあろうお方が、残念でした。恥ずかしいことでした。相手の娘の心がお分かりにならなかった。それはあなたが強いばかりでね、文の心得がないからですよ。」と言って、古歌にこういうの歌があると言うて、「『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき』という歌が有ります。その娘さんは『笠がございません』と言うてお断りするよりも、言うならば一つの風情でもあるし、又、事実自分ところの簔笠の一つも無いと言うのが恥ずかしいから、その歌に寄せてあなたに山吹の花を贈ったのでしょう」と言うと、大いに恥じ入って、それから文の道を勉強した。
 文学、武学、様々な勉強を本気でさして貰った。いわゆる、文武両道と言われるものを。江戸城ですかね、江戸城は太田道灌の築造だと言われている。それ程しの学者になったということです。
 ですから私どもがですね、それこそ山吹の花を差し出されている様なことがいくつも有るわけです。神様が謎をかけておられる。お前はここが欠けておるぞと。ここはこう悟ってくれよと。
 勉強しとかなければ、そん時にフッと悟りが生まれて来ないです。
 だから、腹が立つ。心にフッと悟りが開ければ、これは反対にお礼を申し上げなければならないことであったと、すぐに分からせて貰うことに[「うん」と言う]道が無いばっかりに、言うなら、教えを頂きこんでないばっかりに、そん時に悟りが開けない。
 神様は、いつも、そういうあの手この手をもって、信心をお教えなさってある。
 神様が、場合には、言うならば、謎をかけて下さるようなこともある。
 その謎を解かせて頂く稽古をしとかなければいけない。
 「神様が、今、私に何をお求めであろうか」と、「ああ、神様が甘い物を求めてござる」ということがすぐ分かる。辛い物を求めてござるということがすぐ感付かれる。 私は、信心を身につけていく、そういう内容がです、出来て、私は足ろうた信心ということになり、足ろうたおかげが頂けるようになり、言うならば、貧乏の無い世界、争いの無い世界、病気の無い世界、いわゆる真善美の足ろうたおかげの世界に住むことが出来る。そういう世界を目指すということ。
 合楽では、そういうおかげをだんだん頂いとられる。小規模ながら頂いとられる。それがだんだん大きく育っていくというおかげを頂いて、おかげを頂いてこの様な極楽に住まわせて頂いとります。合楽と私の家庭に現すことが出来ておりますという様なお礼を申しあげた時にです、はじめて、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びということになるのではないでしょうかね。               どうぞ